Essay by Maruyama/連載エッセイ

vol.20「内の外」と「外の内」
写真
 京都のお寺に行くと幅一間の縁側が、手入れの行き届いた庭に向かって解放されている。縁側も屋根が付いているが、ほとんど庭の中にいるようである。おまけに縁側は、下に人が中腰で入れるほどの高さなので、眼の位置が高く見晴らしが利く。ますます庭が身近に迫ってくる。
 さらに、軒先が縁側より一間も長く庭に向かって差し出されているので、軒の下まで庭が入り込んでいるように見える。
 もし縁側や軒先がなく、座敷から直に庭に出ようとすると壁や襖や障子に囲まれていた屋内から、突然、外に追い出されたようで、取りつく島もない。縁側とその先の軒先空間が、外の庭と内の座敷の間を滑らかに流れるようにつないでいて、外のようでもあり、内のようでもある中間の領域である。このおかげで、庭の雰囲気は、ずるずると座敷の方まで入り込んでくるので、家の中に爽やかさが広がる。
 私は裸足で歩ける縁側は、内なんだけれども外に近いので「内の外」雨が掛からない軒先は、裸足で歩けないので外なんだけれども内に近いので「外の内」と呼ぶ。
 北海道では厳しい寒さを防ぐために、内と外をはっきり分けすぎてしまったので、住まいの中に外の爽やかさを取り込めなくなった。近ごろの住まいに、吹き抜けを付けるのが多いのも、その爽やかさを利用して、外の爽やかさを感じさせる「内の中にある外」を造ろうとしているからである。住まいの外に、内から使い易い中庭やデッキを造るのも、なんとか内に近寄った「外の中の内」を造ろうとしているのである。
 縁側や軒先のように滑らかにはならないが、さらに「内の外」と「外の内」を滑らかに繋がるようにして、自然のなかにとけこむ住まいを造りたいものである。

住宅雑誌リプラン・35号より転載
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