Essay by Maruyama/連載エッセイ

vol.60「終着駅」
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 久しぶりに函館に来た。四十五年も前、真新しい学生服を着た初々しい大学一年生として、三月末の寒い朝、青函連絡船から函館駅に降り立ったことを思い出した。船底のぎゅうぎゅう詰めの三等船室のこと、小雪のちらつくなか接岸するのを見ながら甲板に並んだこと、とてつもなく長い函館駅のホームを荷物を抱えながら走ったことも思い出した。
 新しくなった函館駅を見に来たのだが、駅に着いてすぐに朝市に向かったら、あっという間にするすると朝市に着いてしまった。ホームに降りてから一度も階段を昇り降りせず、エスカレーターもエレベーターも使わないで、まっすぐ歩いて行ったからに違いない。駅がまっすぐ街につながっている感じがして、さわやかさを感じた。いままでエスカレーターやエレベーターの便利さにだまされて、このさわやかさを忘れてしまっていた。これは、終着駅の函館駅だからこそつくれたのだが、誰にでも同じように使えるユニバーサルデザインの本来の魅力を感じた。
 ヨーロッパの主要な都市では、都市ができてから鉄道が引かれたため、都市への入り口としていくつもの終着駅がつくられた。まっすぐ平らに、そのまま街に入っていけるので、駅に降りたというより、街に降りたという感じがする。終着駅の函館ではこの雰囲気をつくれるが、札幌や小樽、東京や京都などの通過駅では、このするすると街に入っていく感じはつくることができない。
 終着駅では、扇状に広がるホームから発車したり、到着してくる汽車を正面から見ることができる。函館駅には、それを見るためのデッキが用意されているが、夜汽車の発着は郷愁を誘うに違いない。終着駅こそ、本当の駅ではないかと思った。
 通過駅でない終着駅のような家があるような気がする。終の棲家を考えるヒントになった。

住宅雑誌リプラン・75号より転載
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