Essay by Maruyama/連載エッセイ

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 二十三年前に設計した小さな家を訪れた。はじめは、十八坪の家を建て、その後に五坪ほどの増築をした家である。温室の管理のために温室にくっつく形で建てたので、温室の暖房を利用して暮らす家になった。傾斜地であったので、その段差を活かして一階に居間をつくり、そこから半階分下がったところに水まわりをつくり、それの上、つまり半階分上がったところを寝室にした。居間の吹き抜けのおかげで、家じゅうが見通せるので、窮屈な感じがしないし、ひとつの空間にいる感じがする。しかし、外から見ると隣に建っている物置と同じにしか見えない。ともかく小さな家である。
 おまけに、一階の居間は土間になっているし、屋根の半分がガラスになっているという画期的なものであった。外装は鉄板で、内装はベニヤのままであるが、屋根のガラスにお金を掛けた。二十三年経った今でも、十分に画期的な家だが、これが今も魅力的に見えるのは、住む人に上手に住みこなす力があったからである。
 当時二歳だった娘さんが、お嫁に行ったというが、夫婦二人の家として、過不足が無い感じがするし、それまでののびやかな暮らし方が感じられて、ほっとする。この屋根半分がガラスという画期的な家を、自分の暮らしの中にすっかり取り込んでしまって、ほっとする家にした「住まい力」に感激した。新築当時から見れば、確かに物が増えているが、狭いせいであったと思うが、どれも必要に迫られたものだけが残され、どれもが必然のように置かれているからすごい。あちこちに置かれたものすべてが、自分たちの流儀で、自分たち風に躾られているように見える。雑多が、雑多に見えない躾の倫理観こそが、この小さな家がつくり出した「住まい力」の極意に違いない。小さな家に学ぶ必要があると思う。
 環境に優しいことが叫ばれているが、実は「小さいことこそが、一番環境に優しいことである」と気が付いて欲しい。

住宅雑誌リプラン・82号より転載
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