2009年12月 のアーカイブ
チキタ・ヴァーニレージョの改修・改装・店舗
12月 15th, 2009 / by:URB / category:声
チビタ・デ・ヴァーニレージョは、13世紀から14世紀の中世山岳都市の中でも、際立った断崖絶壁に立つもので
す。新しい橋でも、どきどきするような高さですが、城壁の中には、さまざまな店や宿泊が計画されています。
現在進行形ですので、手がつけられて居ないものもありますが、600年から700年も経ってから、新しく利用で
きることは、今流行のサステイナブルなことの基本ではないだろうか。これは、文明的なサステイナブルではな
く、文化的なサステイナブルな見本である。どこの場所でも可能なサステイナブルは、文明的なものであるが、
その場所でしかできないサステイナブルは、文化的である。今流行のサステイナブルは、世界どこでも共通な
ものを目指しているので、あまりにも文明的であることによって、早晩その道が行き詰るに違いない。
近代建築の隘路と同じことになるのではないだろうか。壊せるものを造ることが持続可能なことに結びつくとい
われているが、このヴァーニョレージョのように、壊しきれないものこそ工夫を凝らして利用するだけに、その土
地の持つ条件や価値や文化を背景に新しい価値観で作り上げられるに違いない。
ウードゥ
12月 15th, 2009 / by:URB / category:声
アラブの楽器ウードゥ演奏者常味祐司のコンサートに行きました。レックと呼ばれるシンバルつきのタンバリンの和田啓と共演でした。久しぶりに新しい世界を垣間見ました。アラブ音楽の音階やリズムの違いを知りました。一つ目は、アラブ音楽の音階は、ミが半音低く、シが半音高く感じましたが、ジプシーのロマの音階と同じではないかと思いました。日本の音階も西洋の音階と違っていますが、むしろ、西洋の音階のほうが数学的に無理やり決めた音階で、もっと感性を重視したらアラブの音階やロマの音階や和楽器の音階こそが、情感を素直に伝えるものなのではないか。西洋の音階で無理やり、東洋の情感を表現しているのではないか、音階からやり直すのが良くは無いか。この辺からアナログとデジタルの戦いがあったのだ。誰もが理解しやすいデジタルに向かうが、あるところを超えるところに来るとと誰もが理解できるできるが、デジタルでは表現できず、アナログでしか表現できない世界に入るに違いない。
二つ目は、弦楽器と打楽器の共演です。ヴァイオリン協奏曲とか室内楽とか弦だけの楽曲が多いクラシックに較べて、煽情的な雰囲気を作れる。クラシックが、宮廷音楽、貴族音楽として成立したことが原因で、打楽器の持つ煽情的で人を高揚させ、興奮させ、ついには激しい行動を誘発させることを避けるため、弦だけによる音楽を作ったに違いないと思いました。ローマ時代の戦闘場面で打ち鳴らされる太鼓や、西部劇の騎兵隊のラッパと太鼓の音、どれも人を高揚させ、興奮させ、闘いを挑む意欲が亢進する。同時に、クラシックの弦楽器が摩擦して音を出すのに較べて、ウードゥは撥で音を出す。日本の琵琶や三味線も撥を使うが、撥を使うということで打楽器と同じように強いリズムを作ることができる。打楽器による陶酔は、弦楽器による陶酔に較べて、煽情的であり、積極性が利あり、攻撃的である。民謡を歌うときの手拍子やアラブの音楽の手拍子も不足する打楽器を補充しているのではないか。
三つ目は、ウードゥの音と較べて、琵琶の弦から生み出される音は、単音的であるのは、乾燥した気候の中で惹かれるウードゥの奏でる弦の微妙な音が、日本の高い湿度の中では、その微妙さが表現できず、次第にシンプルな、明瞭な単音を求めるようになったたのではないかと思える。レックの打面も本来はエイの皮を使うが、に本の湿度ですっかり音が変わるというので、プラスチックにしているという。三味線も同じである。湿度などの気候や環境に適した楽器や演奏方法がそれぞれの土地で成熟してきたのに違いない。日本の横笛の鋭い調子は、あの湿った空気の中で鮮烈な音を響かせるためにあるのではないか。また尺八は、かすれた音質で、心に留まりやすい障りを持った音質を持っているのではないか。
デルフト工科大学図書館
12月 8th, 2009 / by:URB / category:フォトメモ
デルフト工科大学の図書館です。屋上緑化の屋根の中にガラスのとんがり帽子は、むちゃくちゃ楽しくて、思わず芝生の斜面を上がります。子供なんかは、ごろごろと転がって遊びそうなほど愉快です。その中のコンクリートのさかさまの円錐体も存在感がありながら柔和な表情が楽しいです。こんな幼稚園あっても良いと思われるほど、心おどる形態です。屋上緑化のせいもありますが、滑らかな形も土地から浮き上がってきたような自然さがたまらなく嬉しいものです。この中の本屋に会った「数独」を買ってきました。大変はやっていました。ホテルの迎えのバスの運転手ー多分インド人ーが、デフィカルト!と声を掛けてきました。まだ嵌っていて、抜けきれていないなあ。
ヴァンダイクのミュージアム クレーナーミューラー美術館
12月 8th, 2009 / by:URB / category:声
デユウビフェ クレーラーミューラー美術館の彫刻
12月 8th, 2009 / by:URB / category:声
ルイジアナ美術館の小物たち
12月 5th, 2009 / by:URB / category:声
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デンマークのルイジアナ美術館は、大好きなところで三度ほど行ってますが、一日居ても足りません。奥のほうにある冒険砦のような彫刻は、少年に戻った気分になります。そこを通ってきた人の顔が違います。屋外の彫刻やそれの展示の姿も豊な空間をたっぷり持った展示で楽しいです。が、行くと必ず顔を見に行く小物の神様のようなものがあります。素焼きの小さなものですが、盗難にあったという情報があったら、疑われたいと思うほど愛嬌があります。美術館の鑑賞方法で、「作品を見ながら、もし盗んでいくならどれにするかという意識で真剣に見る」というのがありますが、私は、この二つをこっそりポケットに入れて、静かに立ち去りたいと思う。
松本民芸館
12月 4th, 2009 / by:URB / category:声
松本市にある松本民芸館を訪ねました。なまこ壁のどっしりした土蔵をL型に配置した民芸館でしたが、民芸品を見るのが、久しぶりだったこともあって、素直に感心しながら見て回りました。使う素材の厚さや力量感は圧倒する力があって、軽く、薄く、繊細に作って、物の存在感を消そうとしている今の趨勢とは異なった美学を見せてくれています。また、一つのものを造るのに掛けられた時間の長さも根気の良さも、造られたものから感じることができて、ココロが落ち着いた気がしました。
最近、なぜか小さな彫像というか、人形というか、小物に興味を持つようになりましたが、それも、どちらかというと異形な姿に共鳴することがあります。かつて流政之さんのアトリエに伺ったときにも、ぞっくとした小物が飾ってありましたし、猪熊弦一郎さんの美術館にも、怪しい小物が飾ってありましたし、ルイジアナ美術館にも愛嬌のある陶器の小物が飾ってありました。これらの小物の写真が、探せれば載せます。
これらの怪しい精気、霊気を漂わせる小物に眼がいくようになりましたが、この彫像は、確か、アフリカの木彫だったと思いますが、写真に撮った後も心を離れません。還暦を過ぎるとこういう心境になるのですかね。
リートフェルト作品
12月 1st, 2009 / by:URB / category:フォトメモ
クレーラー・ミューラー彫刻庭園にあるリートフェルト設計のリートフェルト・パヴィリオンです。屋根と壁だけで、囲い込むことはしていませんので、柱と屋根とガラスとブロック壁の構成だけでできていますので、そのプローポーションだけを洗練させたパヴィリオンですから、美しいです。ふと、谷口吉生さんのプロポーションを思い出しました。北海道でブロックを積んで住宅を作っている私にとって、衝撃的なデザインの横積みブロックのすかし塗り仕上げを発見しました。このブロックの大きさは、425×235×100でした。今年、挑戦してみましたが、地震のある国では、かなり慎重に積むこととなりました。
これを見たのは、数年前になりますが、リートフェルトの住宅以外のものを見たのが、初めてでしたので、感激しました。